「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
とは夏目漱石の「草枕」の冒頭ですが、まさにこれは名文でその通りだと膝を打ったことが何十回と言ったところです。
とかく人の世とはそういうものでしょう。
漱石が「詩が生れて、画が出来る。」といったのはいわゆる達観なのではなく諦観なのだと思います。
芸術とはどう考えても突き詰めればジレンマやトリレンマの結晶体であって、完全なものではありえないのだと思います。
ダヴィンチにしろミケランジェロにしろ完全なものとは何かを標榜しつつ現実と完全の間に横たわるジレンマにもがいていたのでしょうから。
モーツアルトの音楽も完全を目指しつつも自らを完全の中に含め得なかった欠陥を有している意味ではジレンマやトリレンマの虜だった事は想像に難くありません。
==================
会社勤めとはまさに漱石の言う「智に働きながら情に棹さす」の繰り返しのようなのもで、私は安いところに幾度も引っ越した身です。
しかし、意地を通す性分が抜けない…(涙)
昨日も気が付いたら思いっきり意地を通していました。それはやはり「情に棹さした」からなのですが。それを智にはたらいて意地を通し情にさおさす性分だから始末に終えない。
システムの打ち合わせです。私は毎日現場を見て周り現場の本当に働き者のおじさんやおばさんを見て回っています。(お兄さんやお姉さんもいます)それはそれで毎日軽口を叩き合う間柄になっていて、それは情というものも沸いてきます。その人情を失っては人間としておしまいなのです。
でも翻って企業人としてみればどうでしょう。そのおじさんやおばさんが必ずしも必要でないケースが多々出てくるのは事実です。
その中で口にしたくもないリストラなんていう言葉も出てきます。
私は腕組みしながら考えます。できるだけみんなのために、そして最適化をと…。
無理なのでしょうか…。自動化やシステムの入れ替えは効率化を主眼としていることに他なりません。しかしそれが軽口を叩き合っている素朴な人々の福音となるとは決して言い切れないことを私は知っています。それでも私はそれを推し進めようとしています。
…
そう深く思いつめることではないのかもしれません。もっとドライに考えていいことなのかもしれません。(諦観=あきらめ がここで顔を出すのですが)
まあ、しかし現実には怒りを隠しきれないとんでもないドロドロとした事実もその裏には蠢いていますから…。
従業員には、フランス人形のような女の子をストーカーする巨大なチャウチャウ犬とか奥の院のお局のそのお母さんとかそんなのも混じっていますから…。
もしかしたら、とんでもないラビリンスに舞い込んでしまったのかもしれません。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
あらためて読み返すと深い文章です。
最近のコメント