まんが談義に夜も更けて

まんが談義に夜も更けて(第14回 「追伸」森雅之)

随分のご無沙汰です。

と言うのもそれ以降私の好きな作家の本を置いている書店に行く機会を逸していたからなのですが。

梅田と肥後橋の間にあるジュンク堂書店の大阪本店、只者ではないですね。私のリクエストに答えてくれる本の品揃えをしてくれていると言う意味ではピカ1です。

大阪中探しても多分なかったでしょう。老舗の旭日屋や紀伊国屋にも置いていない書籍がきっちり置いてある、そして店員は的確にその位置を把握していると言う意味では、いま大阪の書店では一番でしょう。

それはさておき森雅之さんの本「追伸」ですが、これは珍しく長編です。しかし、長距離恋愛をしている男女の往復書簡という形がとられています。ですから、短編の積み重ねで長編化していると言う意味合いが強いです。

何度も言うようですが、森雅之さんは詩人ですので、その一語一語やその一絵一絵が重要なのです。登場人物は殆ど山田くんと小林さんの二人だけでその往復書簡が淡々と綴られているだけなのですが。

しかしやはり詩的で、ほろっと泣いてしまう作品です。

こんな恋愛がしてみたいと思ってしまいます。

憧れの北海道と憧れの東京です。

私にとって北海道は未知の地で、東京は思い入れの大きい地です。

今ならジュンク堂の大阪本店に1冊残っています。
買うなら今です。明日にでも行って売れ残っていたら私が買い取ってきます!!
それほどの作品ですので、ぜひお見逃しなく!!

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豊穣の3日間

研修の話ではありませんよ!!
研修は最悪でした。ニコニコした顔のまま固まってしまいました。
今帰ってきて夕食を食べてほぐしている所です。
あんな、顔面神経痛を起こさせるような研修はもう願い下げです。

そんなことではなく久しぶりに大阪市内を存分に歩けてその意味では豊穣の3日間でした。

なんと、諸星大二郎の本を3冊森雅之の本1冊をGETしてしまいました。

これは大変貴重です。特に森雅之さんの作品が書店に並ぶことは極稀なことで、そこに行き会えて購入できたのは神の配剤と言うか、3日間どうしようもない研修をよく絶えたねとのご褒美なのかと思っています。

諸星大二郎著「海神記」上下巻
諸星大二郎著「壁男」

そして森雅之著「追伸」

最後の「追伸」はなぜか2冊も置いてあったので思わず2冊買い占めようかと思ったぐらいでした。彼の作品ならば2冊持っていても価値は充分あります。娘に先日面白い写真集を誕生日のプレゼントとしてもらったので、同じ森雅之のファン仲間としてあげてもよかったのですが、彼女は私の本を読めばいいので1冊だけ買い求めてきました。

結局そんな私がのどから手が出るほど欲しい本は、本屋の実力シリーズで書いた「ジュンク堂」や「喜久屋書店」などにしか置いていないのです。

想像するに、森雅之の本が1冊もないと嘆いたジュンク堂の担当者が見ず知らずの私のために取っておいていてくれたのではないかと思うほどです。
実はそれは「追伸」の中身にもリンクしているのですが。

上の三つは私の「まんが談義に夜も更けて」で必ず記事にしますのでお楽しみに

今日はまず、報告まで。

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最近見た映画(黄色い涙)

「黄色い涙(2007年 犬堂一心監督)」

やっぱり女性群に囲まれてしまいました、カップルも何組かいたので黒一点とはなりませんでしたが。まあ、嵐が主演なんで当然と言えば当然の結果なのですが、しかし月曜日の昼一番でほぼ満杯状態というのには恐れ入りました。(たまたま今日は涙腺が硬くてよかった)まだ全国で6ヶ所でしか上映しておらずゴールデンウイークに(428日から)全国拡大ロードショーとのことです。

まあ、たまたま大阪に住んでいましたので、早く見られただけですが。

映画は永島慎二さんとまんがに捧げるというメッセージで始まります。製作者・監督・脚本家の思い入れが伺われ思わずジーンときました。

描かれている漫画家「村岡栄介」は「むらおか栄一」ではなく「永島慎二」として描かれています。

永島慎二は貸本まんがからスタートし、梶原一騎原作の「柔道一直線」で注目されるのですが後に降板し描き手が変わってしまいます。この「柔道一直線」は他の永島作品とは全く異質の物です。そしてその後の永島慎二は売れないが良質の漫画を描き続け2005610日に67歳で永眠されています。

劇中「村岡栄介」がひと夏力を込めて書き上げた作品を、編集者にけなされるシーンがあります。そのとき書いたことになっているのが「かかしがきいたかえるのはなし」なのですが…。

これはまさに

シリーズ黄色い涙/SHINJI.GEKIGA.COLLECTIOIN-NO3

として描かれた作品で、永島慎二の代表作の一つでもあります。奇しくも「柔道一直線」と同じ年の1967年に発表された作品です。月に行きたいと熱望する「かえる」と「かかし」の話なのですが、今でもどこかで読めるのでしょうが?

映画「黄色い涙」では、そんな売れない漫画家とそこに転がり込む売れない歌手・売れない画家・売れない小説家の悲惨で滑稽ですらある生活を描いています。

あんな風でもいいからああいうことをしてみたかった私はいまこんな風にしてここでこんなことをかいています。

しかし(お世辞ではなく)二宮君は本当にいい役者さんになりましたですね。
(嵐が演じているとはいえ)今の若い人たちはあんな生活を見てどう感じるのでしょうか?私も大学時代金が無くてどうしようもないと言う経験をしたことがありますので、雰囲気は分かりますが。「嵐」キャーーーで終わりではないですよね?

(おまけで「かかしがきいたかえるのはなし」表紙と映画のチラシを貼り付けておきます。拡大してご覧下さい。)

Photo_60 Photo_61

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喪失!

森雅之さんのことを何度かこのブログで取り上げていますが、今回はちょっと悲しい出来事が…。

私の思い入れの結晶のような「森雅之作品」なのですが、先日ジュンク堂大阪本店の検索端末で検索したところやはり数冊私のコレクションから抜けていました。そこで全部印刷して、カウンターにもって行き場所の確認をしたところ、端末から出るものの棚に本無しの状態でした。

しょうがなく「お取り寄せ」をお願いしたところ店員さんが分厚い本を繰りながらしきりと
「あれっ、あれっ」
と繰り返すもので
「どうしたの」
と聞くと
「無いんです」
「何が?」
「お名前が」

絶句。なんと取次ぎ会社の目録から「森雅之」の名前が削除されていたのです。

とぼとぼとかなり強い喪失感を抱きながら家に帰ってきました。

今度、東京に行ったら都内中の大きな本屋はしごして集めまくると心に誓う今日この頃です。

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森雅之さんの事(その4)

わけも無く、心が落ち着かないときは
森雅之さんのまんががいいでしょう

スペインのローソクはスペインの猫を映し
ウイスキーはセールスマンの体で花火になるでしょう

夜には街のケーの話を聞き
アラビアやアラスカにきっと煙があがるでしょう

わけも無く、心が落ち着かないときは
森雅之さんのまんががいいでしょう

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まんが談義に夜も更けて第13回 (プラネテス 幸村誠)

昨日(2007/1/19)来国際的に報道されている「中国の弾道ミサイルによる自国の衛星破壊」に対する米英EU日本などから寄せられる非難の声。米国の、「宇宙利用にあたっての協力の精神に反するものだ」というのは確かなことでしょう。

また、それは軍事的な監視を人工衛星に頼っている軍事大国にとって脅威なことは確かです。例えば北朝鮮にこんな技術があれば6カ国協議中唯一衛星を持たない北朝鮮は、相手の目を塞ぐことに成功するかもしれない。

しかしそれらは憶測であり、もしかしたら杞憂なのかもしれません。中国の侵した明らかな罪はspace debris(スペースデブリ=宇宙ゴミ)を新たにしかも大量に発生させたことです。

まんが「プラネテス」の主人公「星野八郎太」はまさにこのスペースデブリの回収を生業としています。

中国が衛星を破壊したのだからすべて落ちてしまって大気圏で燃え尽きてしまうだろうと考えている人がいるとしたらそれは無知に過ぎるというというものです。

弾道ミサイルの破壊によって人工衛星がランダムに小さな破片となって飛散したことと思われますが、その初速が約7.9km/秒に達し投げ出された物体は永遠にその速度を維持したまま地球の周りを回り続けることになるのです。(約7.9km/秒を第1宇宙速度といいます。ちなみに11.2km/秒=第2宇宙速度を超えると軌道の離心率が1を超えてしまうので、双曲線軌道をとり永遠に宇宙を飛び続けることになりますが、初速7.9~11.2km/秒で地表に対して垂直近くに投げ出された物体以外は永遠に地球の周りを猛スピードで回り続けることになります)これがspace debrisです。

そして中国の弾道ミサイルによる人工衛星の破壊は確実にspace debrisを生み出しています。

通常ピストルの弾のスピードは0.3km/秒、ライフル銃で1km/秒でその直径は大きくても直径が数ミリから数十ミリです、それがたとえ直径数ミリの物でも容易に有益な気象衛星や通信衛星などを破壊や停止させる足る物体だということはその速度からして十分想像が付きます。またEVA(船外活動)をする宇宙飛行士はひとたまりも無く死んでしまいます。(たとえ1~2mmのものでも容易に宇宙服を貫いてしまうことは想像に難くない)

またspace debrisが有益な衛星などにぶつかり新たなspace debrisを生み、space debris同士の衝突が新たなspace debrisを生む。space debrisが多くなればなるほどその確率は増し、space debrisの数は等比級数的に増していく…いわゆるKessler Syndrome(ケスラー症候群)が懸念されます。

もしspace debrisの数が離心率ゼロの地球周回の円軌道上で一定数を超えてしまったら、地球の周回軌道に弾幕を張られたような状態が生じその軌道上のすべての有益な人工衛星が一瞬にして破壊されてしまうことを意味しています。こうなると、これがまたspace debrisを生み更にspace debrisの密度を濃くしてしまい取り返しの付かない事態に追い込まれてしまうのです。

まんが「プラネテス」でも「タンテムミラーエンジン」の事故や「軌道機雷」使用でKessler Syndromeが起こる現実が描かれています。

今後の人類にとって「プラネテス」に描かれているような宇宙開発が不可欠なことは言うまでもありません。その中で、中国が行った行為は、ケスラー症候群を生む確率をかなり上げたといわざるを得ないのです。これは人類に対して明らかに謝罪すべき行為だと考えますが、みなんさんはどう思われますか?

今の中国は、「自分達には自分達のやり方がある」と主張します。自然破壊、大気汚染、人権問題、地球温暖化ガス排出、公害、核開発…。確かに今先進国と呼ばれている米・英・EU・日本などはそれらを経て今の生産力や富の蓄積を獲得したのですが、同じやり方をしないとやはり先進国の仲間入りできないのでしょうか?

「プラネテス」でも先進国主導の宇宙開発に対してKessler Syndromeを使ってテロを起こそうとするというテロリストが登場します。

「プラネテス」に描かれるspace debrisの回収を生業とする…これは近未来の想像上の仕事ですが、近未来に必ず発生する仕事であると見て間違いないと思います。なぜならばすでにspace debrisは宇宙開発の脅威となっているのですから。
そしてKessler Syndromeを使ってテロこれも十分可能なことです。ただこれは現実になってもらいたく無いものだと思います。

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まんが談義に夜も更けて第12回(森雅之 「ミントの朝」)

森雅之さんのまんがを取り上げるのはこれで3度目ですが、この作家に関しては内容を詳しく言っても殆ど差し支えが無いと思います。というのが、彼の良さは、その絵や表現力や小道具の描き方によっているところが大きいので、実際に読んでもらわなければいくらギャラリーがどうこう言ってもしょうがないし、内容をばらしたところで殆どはじめて読む人の何も損なわれないと思うからです。間違いなくそれ以上のものを読者に与えてくれるでしょうから。

さて、ペッパーミント物語の下巻に収録された書下ろしの「ミントの朝」なんですが、高卒以来8年ぶりに偶然会った男女のお話。女性はあまり楽しい高校時代を送った記憶が無く同窓会にも出席しないタイプ。ただ、その男性には思い出があって、冬休みに図書館の前で偶然出会って女の子が借りた本の話をするというだけの思い出なんですが…。
その本が実は私も大好きなロバート・A・ハインラインの「夏への扉」なのですが。
8年後の男性は「小林さんはきっともう忘れていると思うけど『夏への扉』今でも一番好きな本なんだ」と言って別れる。

ハインラインの「夏への扉」はSFファンならば誰でも知っているような古典的名作で(例えばアシモフの「アイ、ロボット」並に)、いわゆるタイムトラベルを扱った傑作です。これについては余り中身を語らないほうがいい類の作品です。未読の方はぜひお読みください損はさせません!

もし、この「夏への扉」を知っていて「ミントの朝」を読んだ人はこの8年間の時間差と二人のはっきりとした共通の思い出をなるほどと思って読んだことでしょう。片方しか読んでいなかったらもう一方を読んでみてください。両方読んだことの無い人は「夏への扉」→「ミントの朝」の順で読んでください。(両方とも現在は入手可能です!!)

森雅之さんはこの「夏への扉」をまるで俳句の季語のように使って短い物語に深みを与えることに成功しています。

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漫画談義に夜も更けて 第11回(夜と薔薇)

以前森雅之の「ポケットストーリー」について書いたことがありますが、再登場で「夜と薔薇」という作品集についてです。
あまりメジャーに多くの作品をかかれる方ではないらしいです。北海道では有名なのかと思って北海道出身の人に聞いても知らないという。
まあ、確かに本屋に並んでいるのを余りみたことがないので、そう知っている人が居るわけではないのも解る気がしますが。この「夜と薔薇」自身初版はある出版社から出て、私が今もって居るのは別の出版社から出している復刻版なんです。
中でも私が好きな作品は「キス」という作品。やはり漫画というより「詩」に近い。
なかで、帽子をかぶった制服姿の女の子がタバコをすっているのが描かれている。なかでも気に入ったセリフは

2_6

「ナンジメニテカンイン
スルナカレ。」ッテイウノヲ
ナラッタケレド、
ジャ眼ダケデモキスハ
デキルンダナア

この言葉の感性はやはり特に優れていると思います。言葉の遊びにみえて実は人間の内面を捉えている。キスという極めて淡いふれあいを眼でするという非常に微妙な人間の内面の感覚を捉えていると思います。

それと「ダイアモンド入りのウイスキー」という作品。
これは、男女の往復書簡という形に絵が添えられているものです。
どうも女性の方が病気のようです。でも飲んべ娘と書かれているから、肉体的なものではないのかもしれない。
男の方はどうも作者自身のようですが、よくわかりません。
ただ、淡々と女性の手紙に、あとで男性が返信で書くファンタジックな物語の挿絵を載せているというものです。
どういう関係なのかはわかりませんが、少なくとも手紙で心の交流が取れている間柄なのでしょう。

なんと言うことはないことをなんと言うことなく書く作家で、以前も紹介しましたがこの作品集の序にこのように書かれています。

僕は手紙のような漫画を書きたい。
手紙のように嬉しいものを書きたい。
また僕は、おもちゃのような漫画を書きたい。
おもちゃのように奇妙で面白いものをかきたい。
さらに僕は人造宝石のように精神性を持つものをかきたい。
それは一体どのようなものであるか。
僕には、遠くにあるようにも、近くにあるようにも
思われるのです。

さて、この一冊は
人造宝石のような漫画をかくかも知れない僕が、
これまでにかいてきたものです。
できうれば、一夜でよい、
あなたがたのfavoriteとなりますように!

もし、森雅之の本を書店でで見つけたら、それは宝石みたいなものですから
ぜひ中をご覧になってみてください。絶版になる前に買わないとすぐなくなりますから。
ただ最近の書店は漫画だとビニールをかぶせてしまっているケースが多く
中身を見ないとその真価がわからないような森雅之のような人には向かない世の中になっているのかもしれません。
その分こういうところで宣伝をしておきたいと思います。

森雅之さんのHPがありますのでリンクを貼り付けておきます。

Masayuki Mori-森雅之

漫画家 森雅之 公式ホームページ

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漫画談義に夜も更けて第10回(夏子の酒編)

今では、一つのジャンルを築きつつある「グルメ漫画」、「美味しんぼ」を頂点として幾多の作品が登場してきましたが、頂点をを極めたのはやはり「夏子の酒」でしょう。
子供の頃から異常体質で酒がいくらでも飲める娘夏子は、神の様な舌をもち、酒の雑味を鋭く見分ける。それは父や兄や、杜氏をも超える、そのために他の理解が得られず苦しみもがく女の子。
作者の思い入れ、見識の深さ勉強熱心さは頭の下がる思いです。

特に龍錦復活に掛け、旧来の成苗育苗にこだわり、以前は普通に行われていた有機栽培にこだわり、現状の農業のあり方にまで警鐘を鳴らした、本作は、やはり食の最高峰とは何か、それを壊してしまった人々への警鐘を鳴らすと共に、それがいかに自然に滋味豊かなものであるかということを問い詰めた壮絶な戦いの記録として後世に読み継ぐべき本だと私は考えます。

たとえば、稲作で、ニカメイチュウなどは大敵なのは常識ですが、それを退治する蜘蛛が可愛く見えたら本物だという「宮川さん」の言葉がありますが、米作りを本業として行う人には常識です。
かれらはもったいなくって、蜘蛛を殺すことが出来ない人々です。

例えば酒米の最高峰と歌われる山田錦にしたところで、有機農法で実らせようと思ったら職人技が必要なことは目に見えています。

いま、本物志向の世の中だといわれますが、みなさん本物を見分ける眼は壮絶な戦いの後にしか生まれ得ないものなのだということをよく認識しておいてください。
これは私自身への自戒も含めてのことですが。

(これは書き掛で投稿しています。不定期に更新があります。)

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第9号  森秀樹「墨攻(ぼっこう)(2006年9月29日発行)

酒見賢一の小説「墨攻(ぼくこう)」を原作としたまんが「墨攻(ぼっこう)」です。
墨子がよく城を守った故事から「墨守(ぼくしゅ)」という言葉か生まれ、その攻守を
逆転させたネーミングなのだと思います。それならやはり原作に忠実に「ぼくこう」と
すべきで「ぼっこう」ではないと思いますが。(「ぼっこう」ならば「勃興」か
「墨香」を連想させ造語としては余り適当でないような気もしますが)それとも
漫画家「森 秀樹」は原作は単に原作であって、まんがはまんがで違うものとの意思表
示なのでしょうか?

原作とは違う作品になっていることは確かです。原作では墨者「革離」は「梁城」で死
にますが、まんがではなんと最後に日本にまで来て生き長らえるのです。

「梁城」墨守の第4巻目までが原作の範囲ですが、本来の原作が目指していた世界と違う
結末になってしまっています。本来「墨守」が本分であるはずの墨者「革離」が「梁
城」を離れなければならないようなことにはならず、巷淹中将軍の軍を水攻めにするは
ずがないと思いますが。

先ず、文句の方を先に書きましたが、全否定は私の好むところではありません。
このまんが「墨攻(ぼっこう)」はエンターテインメントとしては、大いに成功してい
る作品だとは思います。ですから、酒見賢一の小説「墨攻(ぼくこう)」とは別の作品
森 秀樹のまんが「墨攻(ぼっこう)」として読むべきなのでしょう。ですからまんが
「墨攻(ぼっこう)」は第5巻目の「飛蝗」以降が本来の姿なのでしょう。

これ以降まんがは原作の頚木を離れ、「恋もする」別の「革離」が登場するのでが…。

歴とした小説やその他を原作として漫画化するのはかなり難しい作業だと思います。
これはまんがに限ったことではなく、映画でも演劇でもアニメーションでもそうでしょ
う。たぶん成功例よりも失敗例のほうが多いぐらいだと思います。小説を別の形にしよ
うと思うぐらいだから、その元になる小説はかなり面白いもののはずです。それを形を
変えて成功を収めようとするのですから至難の業です。

かの名監督「市川崑」ですら手塚治虫の「火の鳥」の映画化で大失敗をしているのです
から。(公開当時貧乏だった私はなけなしの金をはたいて封切館に「市川崑」の「火の
鳥」だったらと見に行って裏切られたのを今でも恨みに思っていますよ)

閑話休題。
私はこのからまんが「墨攻(ぼっこう)」は嫌いな作品ではありません。むしろ好きな
作品で何度も読み返しています。特に第5巻目の「飛蝗」以降はいいと思います。
秦王政の出生にまつわる秘密とそれにかかわる「革離」の活躍にはわくわくさせるもの
が十分あると思います。
一読に値する作品だと思います。
このまんがの方を原作にして映画を作るそうですが、「市川崑」の「火の鳥」当事より
は少し金銭的な余裕も出ていますので見に行くと思いますが、「市川崑」の失敗を繰り
返さないでくださいね。

(今も貧乏人のまんがファン、時代小説ファンで映画ファンは沢山いますので)

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第8号  石森章太郎「ミュータント・サブ」(2006年9月20日発行)

石森章太郎(石ノ森章太郎と改名されていますが石森時代の作品ですのであえて石森と
表記します)に対する評価は人によって分かれるところだと思います。私自身の中でも
分かれているのですから。

しかしその作品の多さ、その分野の多岐にわたるところは彼の師と仰ぐ手塚治虫を凌ぐ
ほどかもしれません。それが自らの作品「萬画」と呼ばしめる所以なのでしょう。

キャラクターを生み出す力(例えば「サイボーグ009」「仮面ライダー」など)、表
現力(ジュンの美術としての表現力、や「ミュータント・サブ」に見られる叙情性)、
ストーリー・テラーとしての力量には確かに抜きん出て優れたものを持っているので
す。ですから巨匠の名に値する漫画家だと言うことは歴然たる事実でしょう。

「ミュータント・サブ」は何度も連載誌を変えながらも書き続けるという、かの手塚治
虫の「火の鳥」のような作品で、あるときは学習雑誌にあるときは少女漫画雑誌に、最
後に少年漫画雑誌に移っていくのですが。(まるで銀河英雄伝説のミュラー提督のよう
です)
それだけ石森には思い入れの深い作品だったのでしょう。
私は、少女雑誌時代のものと少年雑誌時代のものしか読んでいませんので全体像を把握
しているとは言いがたいのですが、基本的には超人的な能力を持つ「サブ」少年がさま
ざまな出来事に出会い、それを解決していくという物語です。

少年漫画雑誌時代の「設計図X編」などはさすがに映画監督を目指しただけのことはあ
ると思わせるストーリー展開で、彼の設計した光速近くにまでスピードが出せるロケッ
トエンジンの設計図をめぐって、陰謀ありアクションあり裏切りありのストーリーで
す。ラストの設計図を破り捨て風に散らす縦長のコマなどはまるでフランス映画のラス
トシーンを彷彿とさせます。

知識の解説、SF的要素、恋愛的要素や時代ものまで含み、その設定を含め彼のまんがを
凝縮したような作品になっています。
そういう意味で「ミュータント・サブ」は彼の作品の位置づけとしては彼の作品全体を
象徴しているような気がします。

少女漫画雑誌時代の「ミュータント・サブ」では登場したときから超能力少年だったの
ですが、少年漫画雑誌時代の「ミュータント・サブ」では、被爆体験を持つ親の子供同
士の輸血によって超能力が生まれるという若干複雑な設定になっています。
(これではミュータント=突然変異体だといえるのかどうかは若干疑問の残るところな
のですが)

その設定に問題ありと主張する人もいるようです。被爆者を軽々しく扱いすぎるという
ことなのです。純粋に「空想科学的」に彼はそのような設定に変えたのでしょうけれど
も、それは余りに「知」に傾きすぎているとの批判を免れないところかもしれません。
「情」的にはその設定を避けるか、違う扱いをすべき問題なのだと思います。

彼の評価の分かれるところは、豊富な知識を持ちその表現力やストーリーテラーとして
の優れた力量を持ちながら、モチーフや作品の土台に問題があるということだと思いま
す。つまりその部分において、彼は「まんがの王様」と呼ばれながら、「まんがの盟
主」に成りえなかった所以なのだと考えます。

例えば1966年発表の「縄と石捕物控」(「佐武と市捕物控」)の座頭の「市」は明らか
に映画勝新太郎「座頭市」(1962)のキャラクターをモディファイしたものだと思われ
ます。市が双方居合いの達人だというところまで似ています。

「リュウの道」の未来に人が食用に供される家畜と成り下がるエピソードは、H.Gウェル
ズの「タイムマシン」と酷似しています。「リュウの道」それ自体は石森章太郎の代表
作と言っても過言ではない作品です。なぜ、極めて重要な「ゴッド」との出会いの場面
にこのエピソードを持ってきたのかは不明ですが、極めて惜しい限りです。

純粋に面白いまんがを描く彼がいる一方で、もう一方の彼は別の顔をしているのです。
そして、彼の評価が私の中で二つに別れせめぎあうのです。

結局のところ、彼は「まんがの世界」で映画での脚色家や演出家やカメラマンとして力
量はアカデミー賞ものの評価されるものの、オリジナル脚本家としての彼に疑問符が付
くと言うことでしょうか。

石ノ森章太郎のファンは今でも多いと思いますし、私もその一人です。そのファンの一
人であり、すでに故人の石ノ森章太郎だからこそ、正当にその評価をすべきだと考えま
す。全否定は私の好むところではなく、色々な方面から今後も石森章太郎の批評はした
いと考えています。

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第7号  諸星大二郎「孔子暗黒伝」(2006年9月18日発行)

子、怪力乱神を語らず」とは孔子の論語の言葉ですが、その「怪力乱神」の中心に孔
子を据えたというのが「孔子暗黒伝」の妙と言うべきなのでしょう。

孔子、老子、釈迦…思想・宗教の巨人たちが登場し、論語、老子の伝説、釈迦の入滅、
顔回(顔淵)の死、五行思想、梵天の塔などなどを、独自の解釈で描いてみせる。まさ
に諸星大二郎の真骨頂とも言うべき作品です。
この作品を読んで「論語」「老荘」「仏典」を読んでみようと思った方も多いのでは?
(「荘子」の混沌の説話を描いた「無面目」という作品もありますが、それはまた別の
機会に)

時は中国の春秋時代、老子の与えた指南車に導かれ岐山の周公廟にたどり着くところか
ら始まります。そこで、この物語の主人公の一人「赤」と出会います。
一方、インドではシュードラ(カーストの奴隷階級)の子「アスラ」はハリ(ハラッパ
ー)の廃墟で祖先の霊(?)から、被征服者である我々の恨みをシヴァの化身となって
はらせと言われます。

「赤」と「アスラ」、孔子門下の天才「顔回」、孔子の宿敵「陽虎」は、やがて最後の
地で出会うことになるのですが…。
ネタばれになるといけませんので物語の内容はこの位で。

私の中国物好きを加速させたのがこの作品で、いまではまんがは言うに及ばず、小説、
ドラマ、映画、時には中国の古典、専門書に至るまで、いろんなものに手を出す始末で
す。

しかし、色々と読み、見聞きするうちに日本はなんと色濃く中国の影響を受けているの
だろうかと思わざるを得ません。例えば日本の葬礼が仏教的な儀式というよりは、儒教
的な色彩の濃いことや、釣り好きの人のことを「太公望」と呼ぶことだとか(それを後
ろで見ている人を「文王」と呼ぶそうですが)枚挙に暇がありません。
やはり文化的には中国はお父さんで、韓国と日本はその兄弟だと思います。同じ血を引
いていることは間違いありません。(親や兄弟だからといって、同じものだといってい
るわけではなく、無論独自の価値観や独自の文化風習を持っているし、それを尊重しあ
わなければならないのは当然のことですが)
しかし、その親や兄弟との関係が今ひとつ良くないのが残念な限りです。

閑話休題。
諸星大二郎はよほどの読書家で、勉強家なのでしょう。その知識の広さは歴史、思想、
科学の分野にまで及んでいるようです。それらが有機的に結びついたときに「物事の深
淵」を覗きたくなるのでしょう。それが「闇の客人」の時に私が書いた「常ならざるも
の」に対する畏敬や畏怖に繋がっているのだと思います。

この物語はラストで何故か「暗黒神話」に繋がっていきます。じつは「暗黒神話」の方
が先に書かれたもので、「孔子暗黒伝」の方が続編に当たるのですが、物語は全く独立
しており別々に読んでも楽しめます。

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第6号  鬼頭莫宏「なるたる」(2006年9月15日発行)

鬼頭莫宏という漫画家のことはほとんど知りません。
「なるたる」というのは「骸なる星、珠たる子」のひらがな部分で
「なるたる」ということみたいで、かなりおもしろい感覚の持ち主なんだろうな
ということは想像できますが…。
そのうち一度は取り上げるつもりでまだちょっと荷が思い永井豪「デビルマン」や
諸星大二郎の「暗黒神話」の前哨戦だと思ってください。

何故か?まんがには風呂敷を広げすぎてしまって畳めなくなってしまうという
ことがあるようです。
典型的な例は石ノ森章太郎の「サイボーグ009 天使編」です。
「サイボーグ009」は全体としては成功した石ノ森の傑作といえるでしょう。
しかし「天使編」だけはいただけません。広げすぎで畳めなくなってますよね。

それに反してその弟子は良くぞ「デビルマン」を畳んだって感じです。
「暗黒神話」に関しては完全に畳めたなって思いますが。

そこまでではなくても、「なるたる」は結構広げた割にはうまく畳めているのでは
ないでしょうか?

はじめはなんだか変てこな生き物を拾った少女のほのぼのとした話かと
思わせつつ、同じような生き物を持つ人々の猟奇的な事件が次々起こり
竜伝説の真相に迫りついには…というところまでいってしまいます。
(ネタバレは未読の読者のためにいたしませんが)

しかし日常みたいなところから、宇宙のどうのこうのや地球の未来がって広げて
いってしまうのは作者にはたまらなく快感なんでしょうね。そこには必ず
伝説や超自然的なものが絡んでくるし、作者はその広がりの高揚感の中で
ついつい畳むことを忘れてしまうのでしょう。
そして、畳まなくてはと思った瞬間、描けなくなるか何とか無理やり畳んで
失敗してしまうかだと思います。

この作品でもそうですが最後はなにか余韻を残すような静かのシーンで終わっている
場合が多いような気がします。少年と少女が海岸を走っていてせりふもなく終わります。

それは畳んでしまったときにもう何も語ることができないのか、くるしまぎれに
余韻を持たせたようにしてしまっているのかはわかりませんが、寡黙にならざるを
得ないのでしょう。

どちらにしろ、一見の価値はある作品だとは思いますが…。

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第5号  樹村みのり「翼のない鳥」(2006年9月13日発行)

端的に言えば、「翼のない鳥」である人が空を飛ぶということは…について描いた作品
です。主人公のジョーイは空を飛ぶ鳥を見て、飛ぶと言う事に憧れ旅立つのですが旅の
途中で「鳥のように飛びたいと望む」ことが「鳥になる」事とは別のことだと気がつく
に至ります。実はここからが本当の話なのです。
それ以降の物語は感動的なエピソードが綴られます。
労働運動にも参加し、隠遁生活の人々にも出会い、生活し、かつて一緒に飛ぶことに夢
見た人にも出会います。
そして、最後にジョーイはとうとう悟りの境地のようなものに達するのですが…。

しかし私が興味深く共感を覚えるのは、後半の本当の物語よりも、導入部分の「鳥のよ
うに飛びたいと望む」ことが「鳥になる」ことと違うということに気がつくということ
です。それは自分にとって真実に本当に気がついているのか?という反省でもありま
す。(私の言う真実とは個人的なもので、決して世界に一つでは無いのですが、少なく
ともより外見よりも本当の姿に近いであろう物のことです)

鳥が飛ぶのを見て「鳥のように飛びたい」と思うことや泳ぐ魚を見て「あんなふうに泳
げたら」というのは誰でも思うことで、動物園や水族館でみて思い、次のサルの檻にい
ったら大抵は忘れてしまっていることなのです。鳥になりたいや魚になりたいとまでは
思うことではありますが、サルの檻に行ったときにはサルの滑稽さにすぐに心奪われ忘
れてしまっていることなのです。

作者は作中でジョーイのモノローグとしてこう読者に語りかけています。

鳥は
考えていたほど
自由ではなく

飛ぶことさえ
季節や
風の方向に
左右される
のでした

そう感じたときジョーイは「本当に飛ぶこと」が「鳥を真似ること」ではないと気が付
くのです。形を真似していたり、ただあこがれのものを漫然と見ているだけでは本当の
ことは見えてこないと言うことなのでしょう。それでは、どうそれを見ればいいのか?
それは難しい問題でそれは人それぞれ違うのだろうと思いますが、おおよそわかってい
ることは、ほとんどの場合「自分にとっての真実」は皮や殻に包まれておりいつもは本
当の姿を見せていないということです。

青少年時代の私はこの物語を読んだりその他のものからそのことに気が付いたものの、
いまだに「どうすれば自分の真実が見えるのか」模索し続けるるのですが、ともすれば
忘れがちになり、したり顔で人に真実らしきものを語っておりハッと気が付き赤面する
日々です。また昨日の2006年9月12はその真実に目覚めた記念日でもあるので、そのこと
をあえて記しておきます。
樹村みのりの作品は、私の志向にかなりあっているのですが、全作品が読めているわけ
ではありません。初めて出会ったのは今は無き幻の「COM」誌だったのですが、やはり寡
作家のようで、ものぐさの私にはなかなか発見できずにいます。よくご存知の方からそ
の探し方ご指南をいただければと思いますのでよろしくお願いします。

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第4号  永島慎二「四畳半の物語」(2006/9/8発行)

永島慎二っていう漫画家をご存知ですか?
2005年6月10日にご逝去されたんですが、私が大変に影響を受けた漫画家の一人で
す。1989年に手塚治虫さんが亡くなられた時も目の前が真っ暗になったものですが
永島慎二さんの訃報をニュースで聞いたときには息が止まるかと思ったほどです。
私の10代後半から20代全般にかけてのまんがの読み方はまさに永島慎二中心だっ
たからです。
永島慎二は貧乏だけれども優しい目を持った人を描く漫画家です。それが漫画家や作
家だったり、「フーテン」とよばれる、定職を持たずに都会をさまよう人々だったりし
ます。

「四畳半の物語」に登場する人物たちもそういう人々です。
胃がんで余命いくばくもない作家の三四郎の家に入った強盗が、三四郎の行李(こう
り)一杯の原稿を盗んでいくところから物語が始まるのですが…。やがて強盗もその娘
も三四郎に心酔し娘は三四郎の妻になり、やがて…。というお話なのですが。
この本今はどうも絶版になっていて、本屋で買って読むというわけに行かない様です。
ですから、入手方法は古本屋で探すか、ネット販売を丹念に探すかしかないのがとて
も悲しいです

妻となる娘は、ある日突然三四郎の元に現れ、「あなたの世話をしたい」、「私にはもう
帰るところが無い」と言い、彼の妻となるのですが。
現実にはこんなことが起こるわけが無いと思いつつも、あったらどんなに幸せだろう
と思って読んだものです。

この話を始めて読んで、10年以上たってから物語の舞台となった東京の阿佐ヶ谷の
近くに住むことになったのですが、こんな娘さんが歩いていないものかときょろきょろ
してしまいました。(そのときにはもう結婚して子供が二人もいたのですが)

先ほども言ったように、入手困難なまんがをどうやって読むのかはとても難しい話で
す。多分、一番早いのが「持っている人に貸してもらう」なんですが、誰が持っている
かわかりませんものね。
私はそのうちそんな本を集めた私立図書館でも作れればと思いますが、ただの夢でしょ
うかね…。

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第3号  横山光輝「水滸伝」(2006/9/3発行)

今回は横山光輝の押しも押されもせぬ代表作「水滸伝」です。しかし、大方の人は
「やはり三国志でしょう」とくるか「鉄人28号」だという若干お年を召した方もおら
れるかもしれません(「鉄人28号」が横山光輝の作品だと知らない若者もいるでしょ
うけど)
手塚治虫の「鉄腕アトム」と共に後のロボットまんがの流れを作った「鉄人28号」も
三国志ブームの火付け役となった「三国志」もまさにエポック・メイキングな作品だと
いうことは誰しも異論のないところで、私もそれに賛同します。

しかし、私がこの「水滸伝」を選ぶのは、特別な思い入れがあって、忘れられないから
です。

もちろん中国「四大奇書」の一つ「水滸傳」の翻案だということはいうまでもありませ
ん。物語は好漢の梁山泊集結以降も少し描かれているので百二十回本を底本としている
のだと思いますが、本編37章中35章までが集結に至る物語ですので、七十回本相当とい
うことでしょうか。

この「水滸伝」は原作の面白みを損なうことなく暴力的な部分や性的描写を除いていく
という作業の後に生まれたようで、下手をすると脂を抜かれた「目黒の秋刀魚」のよう
になってしまうところを踏みとどまっていると私は思います。これを換骨奪胎だという
人もいるでしょうが。私も多くの人の例に漏れず、少年時代に原作より先にこちらの横
山「水滸伝」を読み、長じてのち原作の翻訳本を読んだのですが、その10年以上の時間
差のためか、同じ水滸伝の違う形だとはは思いますが、別の物語だとはいまだに思いま
せん。いまでも横山「水滸伝」を時々とりだしては読んでいますし、初めて読んだとき
の宋江や林冲の活躍に胸躍らせています。

鉄牛がとらえられ、それを助けるべく朱富が追っ手の李雲を痺れ薬で眠らせるが、義の
ために師匠である李雲が起きるのを待って詫びるエピソードは何度読んでも感動してし
まいます。純粋に利害ではなくこんな風に生きられればと思ってしまいます。
こういうエピソードに感動したことが今の武侠小説好きで中国物好きの私を形作ってる
のですが。

かなり持ち上げておいて、こんなことを言うのも何なんですが、この横山「水滸伝」には
奇妙なところがいくつかあります。いろいろ指摘されているようですが、私の気がつい
たところを3つばかり紹介しますと

(1)公孫勝一清道人は道士であるにもかかわらず僧形をしていること。

これは横山光輝の仏教と道教の混同なのか、単に道服の資料がなかったからなのかはわ
かりませんが、あきらかな間違いです。しかし、一清道人が「射ちょう英雄伝」(ちょ
う=鳥へんに周)の丘処機の様な風貌に描かれていたら違和感があるでしょうからこれ
はこれでいいのかもしれません。

(2)呼延灼将軍の持つ武器は鞭(べん)であるべきところ、「むち」として描かれている
こと。

鞭(べん)は節のある金属の棒状の武器なんですが、多分横山光輝はこのことを知らず
に「銅の鞭」を「銅のむち」だと思い込んで描いてしまったのでしょう。
余談ですが、鞭といえば尉遅敬得(うつちけいとく)ですね。隋末唐初を描いた「隋唐
演義」での秦叔宝(しんしゅくほう)との戦いが有名ですが。この二人は中国の年画(中
国で正月に門や室内に飾る絵画)として最もポピュラーな題材なので、何かで見られた
方もあるかと思いますが、そこに描かれている秦叔宝の持つ節くれだった棒のようなものが実は鞭なんです。ちなみに節のないほうを持っているのが尉遅敬得でこの武器をかん
(金へんに門構えに月)といいます、この絵を別名「鞭かん門神」といいます。

(3)九紋龍史進の元師匠の打虎将李忠と桃花山の首領の打虎将李忠がまったく別人物とし
て描かれていること。

李忠も歴とした108人のレギュラーメンバーです。初めて登場したときは史進の元棒術の
師匠で今は落ちぶれた膏薬売りとして出てきます。このときにはいかにも落ちぶれて精
彩のない人物で狐のような面立ちに描かれています。どこでどう変転したのか、整形し
たのか、桃花山の首領として再登場するときにはぎらぎらとしてごつい顔のいかにも山
賊の首領となっています。再登場することを完全に失念していたの
かもしれません。

そして、私の思い入れの真の原因は…?いやいや、いまは語りますまい!

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第2号  森雅之「ポケットストーリー」(2006/9/1発行)

「ポケットストーリー」は一つの物語ではなく、まるで詩のような短いまんがの集まり
です。子供のちょっとしたエピソードやとても淡い恋心や夢見がちな少年の独り言など
を集めたものです。また、かなりの天文ファンらしく星の話がよく登場します。

エピソードの一つに「MARS(マルス)1986」というのがあります。互いに好意を寄せて
いる高校生位の男の子と女の子が1971年の火星大接近の年に女の子の家庭の都合で離れ
離れになります。15年後、1986年の火星大接近の年にお父さんになった男の子は、まだ
幼い娘と一緒に火星を見ているというお話です。
男の子と女の子は再会できたのかとか、この娘はその女の子の子供かなどどいろいろ想
いをめぐらしてしまいます。エンターテインメント的には二度と再会できず、別の女の
人と恋におち、結果好きだった女の子とそっくりの娘を得るといったところでしょう
か。でも心情的にはやはり再会し結ばれ女の子とそっくりの娘ができるの方でしょう
ね。

「MARS(マルス)1986」最後のコマのセリフ
娘「ねえ カセー人っているの?」
父「うん いるよ」
こんな父親がいいなと思ったものです。

高校生時代にこんな恋の経験はない私ですが、私にも女の子がいて、なんとか森雅之が
好きな娘に成長してくれています。その意味ではほんの少しはこんな父親になれたのか
なと思うのですが、実際にはどうなのでしょうか?

「手品の春」というエピソード。女の子が庭の樹に引っかかっていた小さなハンカチを
弟に見せ、手品に使うハンカチだと教えられます。その春から新社会人になった女の子
はそのハンカチに「リンゴエッセンス」を染み込ませ通勤します。
言葉に書くと、ただこれだけのお話なのですが、この女の子がどんな性格でどんな生き
方をしているのか、弟とどんな関係なのか、などなどこのまんがのコマ数以上に多くの
ものが伝わってくるから不思議です。(特に弟との関係なんかはいろんな別のエピソード
が想像でき思わずにやっとしてしまいます)

森雅之の魅力はまさにそこにあるのだと思います。普通一般のいわゆるストーリー
まんがを小説だとするならば、森雅之のまんがはやはり「詩」なのでしょう。
森雅之は「夜と薔薇」という作品集のなかで、「手紙のように嬉しいもの」
「おもちゃのように奇妙でおもしろいもの」「人造宝石のように精神性を持つもの」
を書きたいと言っていますがそれは私の言う「詩」なのだと勝手に解釈していますが、
間違っておりますでしょうか?
多分そうでなければ、森雅之の言う一夜の「favorite」どころか、ずっと私のfavorite
にはなってはいないしょうから。

森雅之は北海道の出身で札幌在住だそうですから、作品の中に描かれている風景はきっ
と北海道の本当にある風景なのでしょう。私は北海道にまだ行ったことがないので、そ
う勝手に想像して、そう思っているだけで、もしかしたら作者の創作による風景なのか
もしれません。つい先日北海道出身の友人と話をしたときに、その自然のすばらしさを
目を輝かせながら、熱っぽく語ってくれたのがとても印象的でした。その瞳は森雅之の
まんがと一緒の色をしていたので、きっと本当の北海道の風景も森雅之の描く風景と一
緒なのだろうと思います。真偽のほどはいつか本当に北海道に行って確かめてみたいと
思います。
森雅之のことを書いたからではないのでしょうけれど、、マルセイバターサンド
や白い恋人を別々の人からいただいて今我が家はさながら北海道お菓子フェアの
ようになっています。

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第1号 諸星大二郎 「闇の客人(まろうど)」2006年8月26日発行

以前、ブログを始めるのに前後して「まんが談義に夜も更けて」というメルマガを「まぐまぐ」さんの方でやってました。そちらからこっちに来てくれた人も結構居たんですが。それを10/29付けで休刊して、今度本格的にそちらも閉じようと思います。これを機にそこでの分をこちらに移し加筆訂正していきたいと思います。

第1号 諸星大二郎 「闇の客人(まろうど)」2006年8月26日発行

これから、私の好きな漫画作品にスポットを当てて雑感や周辺を書いていこうと
思います。「私の好きな」というところに力点を置きますので「私的まんが日記」
ということです。世間一般の評価はいざ知らすということです。

第1回目は諸星大二郎 「闇の客人」を取り上げたいと思います。
漫画ファンから「いきなり諸星大二郎ですか」と言う声が聞こえてきそうですが…。
それも「西遊妖猿伝」や「暗黒神話」ではなくどうして「闇の客人」なの?といわれ
そうですが「私の好きな」とはこういうことだからです。

これはかなり長く続いている稗田礼二郎(妖怪ハンター)シリーズの中の一編です。
諸星大二郎はこれといった大ヒット作が無い上に、寡作家なので人気作家とは言い
難いのですが、熱狂的なファンを多く抱えています。一旦その特殊な世界に魅入られて
しまうと容易に抜け出すことが出来ない。かくいう私もその一人なのですが…。

諸星大二郎が描く世界にはいくつかのキーワードがあるのですが、そのひとつが
「異界」です。この場合異界とは神々の世界のことなのですが、現代の日本人が
思い描く西洋的な「神々の世界」とは全く異質の世界で、「幸神(さちがみ)」
もいれば「荒ぶる神」もいるという独特の神々の世界のことです。
表現は難しいですが、古事記などに描かれる神々の世界に諸星が独自の脚色を施した
世界…ということでしょうか。(どなたかよい表現があったら教えてください)

闇の客人はその異界への出入り口が開き荒ぶる神がこちらの世界に入ってくるという
物語です。しかし、描かれているのは独特の不思議な世界だけではなく、賢しらな
現代人とその営みに対する痛烈な批判なのです。我々の祖先たちがどんな想いで身内
から犠牲まで出しながら「祭」をしなければならなかったか、について想いを至らせる
ことなく、町おこしと称し、ただ形を真似し「祭」自身を異質なものに変えてしまって
いることに対する批判です。

批判や非難をしないまでも、同じような違和感を感じることは今の世の中たくさん
あると思います。例えば、墓というものは自分の祖先のものだろうが、無縁墓地だろう
が大抵は畏怖や畏敬の念をもって見るだろうし、それを汚すことは何人にとっても
タブーのはずだと思います。しかし、歴とした人の墓である古墳やピラミッドを暴く
ことは国が公に認めそれに対して税金まで投入し奨励しています。学問上の必要性や
観光資源としての必要性は理解できますが、その割り切りに違和感を感じるのは
私だけでしょうか。

脱線してしまいましたが、諸星大二郎が描く世界の裏に賢しらな現代人に対する批判
が多く読み取れることは事実で、それを「異界」からの来訪者とその振る舞いそして、
現代人の戸惑いと言う形で明確に描いて見せたのがこの作品だと思います。諸星大二郎
作品の根底にあるのはこの世から時々垣間見える「異界」などの「常ならざるもの」に
対する畏敬や畏怖なのだと思いますが、それを裏返すと「賢しらな人」が見えてくると
いうことでしょうか。そういう意味ではこの「闇の客人」は諸星大二郎の代表作だと
言ってもおかしくは無いと私は思っていますが、いかがでしょうか?

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「墨攻」が映画になるって!!

とあるブログ(劉徳華=アンディー・ラウさんのファンの方のブログ)をパラパラと見ていますと、「墨攻」が映画化されるとの情報があるではないですか!あの酒見賢一の「墨攻」が!
早速リンクを辿って見ていきますと「伝説のコミック完全映画化!10万人の敵にたった1人で挑んだ男」ですと!伝説のコミック完全映画化!?あれは「伝説のコミック」なんじゃなくて酒見賢一の「伝説の小説」なんですよ!
主演のアンディー・ラウはいいですよ。「LOVERS」や「インファナル・アフェア」で名演した、香港の名優だと思います。だから「革離」をきっとちゃんとやるでしょうし見ごたえもあるでしょう。しかし許せないのは原作を「コミック」としたところです。

Photo_7
もう一度言います。「伝説のコミック」なんじゃなくて酒見賢一の「伝説の小説」なんですって。コミック版と原作版の違いは私のメルマガに詳しく書いていますのでお読みください。

まんが談義に夜も更けて #9「墨攻」

原則的にまんがのことはメルマガで映画のことはブログでって決めて始めたんですが、その禁を少し破ってしましました。
でもこの映画「墨攻」はきっと見に行くでしょう。前売り券まで買って公開日に。
メルマガにも書きましたが、「市川崑」の「火の鳥」のように(市川崑でさえこんな大失敗を犯すのです)、またTVドラマ「水滸伝」(これも横山光輝が原作になっていましたし、なんと及時雨・宋江ではなく豹子頭・林冲が主人公になっていて、何ともひどい出来でした)のようにならなければいいのですが…。

まさか、「革離」ではなく「梁適」が主人公なんて話になりはしないでしょうね。(まさか「薛併」が主人公なんて事はないでしょうけど…でも何があるか分からないぞ…宋江ではなく林冲を主人公にする人間が世の中にいるのだから)
配役的には期待をしましょう。香港を代表する名優「劉徳華」(=アンディー・ラウ、きっと革離役でしょう)と韓国を代表する名優「安聖基」(=アン・ソンギきっと巷淹中役でしょう)が出ているみたいだし。
でも、黒澤明の「七人の侍」までとは言わないまでもまともな鑑賞に堪えうる作品になっていなかったらまた映画館の前で「金返せ!!!」と叫びますよ。


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もう眠い!

メルマガ「まんが談義に夜も更けて」は私の一番勢力を傾けている趣味です。

好きなまんがの作品を出来る限り周辺を含めて書く…というスタンスで余り一般うけするものではありませんが。

最新刊は以下です。

第7号  諸星大二郎「孔子暗黒伝」

私の好きなまんがを、ここに書き、その他をブログに書くということをしています。

ぜひご覧ください。

そのうち、映画、ドラマ、小説などなどを統合した、メルマガ/ブログ/ウェブサイトを作るつもりですが…まだ。修行中です。

導眠薬を飲んで酒も飲んでしまった。今、大変眠いのです。

おやすみなさい。

(2007/4/10追記 メルマガは閉鎖しました)

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違和感

特に最近いろんな世の中のことに対して違和感を覚えることが多い。

北朝鮮のこと、拉致被害者の家族の人たちやその支援者の人たち

が「経済制裁を」と叫ぶ。被害を受けた人たちが現状打破のために

それを訴えることは至極まともなことと思うし、理解できる。

しかしちょっと待てよ、もし経済制裁したとして、北朝鮮の

為政者たちは困窮する。その困窮した為政者は、すでに困窮している

人々をさらに困窮させることは明白だ。そしてすでに困窮している

人たちに罪が無い(もしくはきわめて薄い)こともまた明白なことだと思う。

そうならば、結局は「経済制裁を」と叫ぶということは、結果的に無辜の人々

困窮をさらに促進することになるのではないか…と。

経済制裁が必要で有効だろうということは頭では十分にわかっているのだけれども

そんなことを考えると自分に合ったサイズの服を着ていないような違和感を覚える。

(同じようなことを、私のメルマガにも書いています。よろしかったら読んでください。

まんが談義に夜も更けて#1 諸星大二郎 「闇の客人(まろうど)」

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帽子屋さん

某企業団地の中にある私の会社の周りには表向いろんなな会社が

ありますが、いったい何をしているところなのかほとんどわかりません。

会社の外に置いてあるものや看板を見て「ああ、ここは洋服の卸かな」

とか「薬品を扱っている会社かな」とか思うんですが、通勤の途中

よく通るところにある会社がなんの会社だかわかりませんでした。

今日の昼休み、昼食の後喫煙室にばかりいると

あまり健康的ではないだろうと、最近は少しすずしくなったしと

散歩に出ました。その会社の前を通るといつも開いていない

(いなかったと思う)ショウウインドウに帽子が一杯飾られているのを

発見!「ああ、帽子屋さんだったんだ」思わず写真をパチリと一枚

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私の敬愛する森雅之さんの「キス」というまんががありますが

「帽子というのは、オシャレでも、高級なもののように思えます。」

と書かれていいたのをふと思い出しました。

そして、自分でかぶるのではなく誰かに帽子をプレゼントしたくなってしまいました。

でも、まだ買っていません。

(よくわからなかったK****さんの店先にて)

(森雅之さんのまんがについては私のメルマガにも書いてますので、よろしかったらご覧ください。まんが談義に夜も更けて(森雅之「ポケットストーリー」)

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その他のカ